Dr.T's room

相談員を生業とし音楽家を生き甲斐とする2児の父の話

Later of 13years later

このブログをラップにすると

こうなる。

 

verse1
梅雨明けを待たず 鳴き出す蝉が現れ
ふと気付く 13度目の夏の訪れ
毎日思い馳せるほど暇じゃあないが
ふとした瞬間に脳裏をよぎるよ

天国はどうだい?とは俺は言わない
どうやらそこは無いらしい
ただ、世界は幾千も枝分かれしていて
交わらない世界線が存在してるらしいんだ

だから聞くよ そっちはどうだい?
そっちの俺はどこでどう暮らしてる?
こっちの近況は案外悪くない
子供や仕事
どれもハードではあるが

重圧と充実のバランスは取れてる
そう言えばまた奴らとバンドを組んだんだ
極上のサードプレイスでバランスは盤石
まぁそうだな、痛いと言えばお前の不在くらいか

 

hook
13年の時が経ち さすがに
フルカラーの面影もセピアに変わる
ただあの夏共にした旅の思い出は
今も変わらず鮮やかなまま
13年の時が経ち 嫌でも
ハイレゾの笑い声はローファイに変わる
ただあの夜共に閉じ込めた歌だけは
今も変わらず鮮やかなまま

 

verse2
もう交わらない世界線のお前とは
当然 一生涯 合間見えない
だけど、こうしてまた想いを馳せては
したためてしまう 届くはずのない手紙

どこかで生きてるって思いたい願望が
走らせるペンの筆先は早い
10年以上経ってんだ
未だ飲み込めてない…なんてことはないはずなんだが

しかしこれはパラレルを前提として話すが
こっちのお前はマジでアンラッキーだったよ
だって老け込んだ不惑前の込み入った話は
どんな小料理も敵わない酒の肴だ

だからそっちの俺によく言い聞かせてくれないか?
『日々の愚痴を垂れ流す前にこっちを見ろよ
今目の前の俺とこうして話せてるお前は
実はとてもラッキーなんだぜ』って

 

hook
13年の時が経ち さすがに
フルカラーの面影もセピアに変わる
ただあの夏共にした旅の思い出は
今も変わらず鮮やかなまま
13年の時が経ち 嫌でも
ハイレゾの笑い声はローファイに変わる
ただあの夜共に閉じ込めた歌だけは
今も変わらず鮮やかなまま

 

verse3 16
ここ数年 しみじみと感じているんだ 
人生の悲喜交々は25歳からだ
俺に幸いにガキが出来たことも
生業にやり甲斐を抱きだしたことも

そのどちらにも存在する憂いや光も
全部 お前がいなくなってから知った
だからどうだこうだ言うこともないが
やっぱりもったいなかったよこっちのお前は

結婚は出来ちゃった結婚 これは間違いない
心血注いだバンドの行末はいかに
今となっては全てたらればに過ぎなく
写真のお前は永遠に青臭く輝く

でもまぁいいか そっちの俺は
これから先もお前と生きてくんだもんな
そいつに譲って俺は俺を生きるよ 
幸いやることは死ぬほどあるしな

 

hook

13年の時が経ち さすがに
フルカラーの面影もセピアに変わる
ただあの夏共にした旅の思い出は
今も変わらず鮮やかなまま
13年の時が経ち 嫌でも
ハイレゾの笑い声はローファイに変わる
ただあの夜共に閉じ込めた歌だけが
今も変わらず鮮やかなまま

 

 

アウトロ

追伸 最後に もう一つだけ

もしも昔好きだったあのゲームみたく
次元にでっかい風穴が開いて
もしももしももう一度会えたら
馬鹿みたく薄っぺらな話をしよう

あの四畳半で 夜が明けるまで

 

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あの部屋

僕は1人暮らしをするのが遅かった。

 

26歳で、やや給料に余裕が出たタイミングで急に思い立ち、30歳で結婚するまでの概ね4年間くらいを駅前のだだっ広いワンルームで過ごした。

 

目に映るもの全てに自分の意思だけが介在している空間というのはとても心地良かった。

 

僕の友達は大体皆30前後で結婚、第一子が出来ているので、当時はまだ皆結構動きやすかった。

 

毎晩の様に仲間を呼び、宴会をして過ごした(なので貯金はとんと貯まらなかった)。

 

 

あの部屋で、BUCK-TICKを狂ったように聴いていた。

 

あの部屋で、当時2つ掛け持ちしていたバンドの作曲をしていた。

 

あの部屋で、転職を決意して動き出した。

 

あの部屋で、妻に結婚を持ちかけた。

 

こう書いてみるとあの部屋は僕の人生の全ての転機の起こりとなっている気がしてきた。

 

人生で初めて自分で家賃を払ったあの部屋。

 

最後の晩、幼馴染たちに引越しを手伝ってもらい、宴会をし、何も無いあの部屋に帰った。

 

布団はもう新居に送っているから、ヤニ臭いカーテンにくるまって寝た。

 

ヤニ臭いカーテンは、駅前ならではの電車の音を実は結構遮音してくれていたようで、終電が終わるまで全然眠れなかった。

 

最後の鍵を右に回す時『嗚呼、いつか走馬灯で見る「自分の家」はこの家なんだろうな』と思った。

 

しかし、あれから8年弱経ったが、一向に夢にも見ない。

幸い走馬灯を見る危機にも陥っていない。

 

人の感傷なんてそんなもんである。

 

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今の携帯に唯一残っていた、がらんどうになったあの部屋

 

所長となったDr.T

出世をし、事業所をひとつ任されることになった。

 

まだ開設していないから正確には『なる』だが。

 

準備段階だが、管理者会議みたいなものにもお呼ばれし、毎日出るボスからの宿題と戦う日々である。

 

自分で言うが、僕は書類仕事が得意なので、その辺はなんとかなっている。

 

と思っていたら、今まで経験したことが無い物量の書類が押し寄せてきて、自信喪失した。

 

福祉施設は言ってしまえば制度ビジネスなので、お役所の認可を受ける必要がある。

 

その提出書類がいかつい。

たぶん冷静に見たらそんな大したことは書かなくていいはずだが、馬鹿みたいに多いので非常にゲンナリする。

 

光熱水の開通やらリフォーム屋との工事の打ち合わせやら、今までやってこなかった細かな業者とのやりとりも多い。

 

そういう『バリバリの社会人』みたいなものになれる気がしなくて、目の前の人との対話でなんとかなる福祉屋になったはずなのに、ヨワイ38歳にして苦手が押し寄せてきた。

 

まぁでも単純なので、それなりに発奮している。

 

立ち上げてさえしまえば、今までとやることは一緒だし、人の話を聞いて一喜一憂する日々が始まるはずだ。

 

ヘラヘラしながらいけるところまでいこう。

 

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気になりすぎて毎日リフォーム工事を見に行くわたし

 

青春の最終回

PTPの映画を観てきた。

 

日本のラウドロックの礎を築いたバンドで、ボーカルの急逝で活動を停止したバンド。

 

1行で書くとこんな感じに味気ないが、音楽は記憶と結びつき、個々人に取って特別なものとなる。

 

僕にとっての彼らは青春のヒーローだった。

 

憧れが過ぎ、19歳の頃にやってたバンドなんかは今聴くと明らかに『薄いPTP』だ。

 

正確にはボーカルのKがその前に組んでたGUN DOGの影響の方が時期的には強いけれど。

 

GUN DOGは本当に衝撃だった。

 

洋楽に負けないくらいの重低音。

シニカルな世界観のPV。

 

なによりKの華と美声。

 

この手のジャンルに『圧倒的な歌唱力』という概念をもたらしたのは、間違いなくKとチェスターだと思う。

 

…書いていて2人とも世を去っていることに切なくなってしまった。

 

正直狂ったように聴いたのは2作目くらいまでで、その後はアルバムのリード曲みたいな曲はハマる程度の温度感だったが、やはりKの他界はショックだった。

 

またしても私情と結び付いてあれだが、1番一緒にKの声を聴いていた件の親友が世を去った後だったから余計に。

 

そんなPTPが映画になる。

 

子供が産まれてから映画館にはシンエヴァを観にくらいしか行っていなかったが、ちょうど公開初日に研修で都会へ出ているという運命的なものも重なったので、意を決して行ってきた。

 

正直号泣するには、時が経ちすぎていたのか、僕が歳を取り過ぎていたのか、至らなかった。

 

しかし、僕の青春を、バンドサウンドの指向性を、劇的に変えた彼らがこうやって『最終回』を形にしてくれたことには、とてもグッときた。

 

メンバーの急逝という誰の意にもそぐわない終わり方をしたバンドが、その足跡全てを曝け出してくれたことに感謝と尊敬を抱いた映画だった。

 

ずっと頭にあったわけでは無いが、完全に一区切り付いた。

もしかしたらメンバーにもそういう意図があったのかなと思う。

 

さようならPTP。

PTPよ永遠に。

 

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交差する風景

僕は相談員をしている。

 

今は地域で社会福祉法人に所属している相談員だが、前職は病院に所属している相談員だった。

 

今の職場で8年、前職で5年(8年勤めたが最初の3年は他部署だった)やっているので、計13年相談員をしている。

 

13年もやっていると、結構な数の人と出会う。

 

以前晩酌中に『記憶だけ辿って病院時代のクライアント何人思い出せるか選手権』を1人で勝手に開催したのだが、2時間くらいかけて、108人の顔と名前とエピソードを思い出せた。

 

僕は病的に記憶力が良いが、大体こんなことに使っているので、大して役には立っていない。

 

 

今の職場に来てからのことは数えていないが、前の職場よりももう既に長くいるので、単純に倍にすると、200人くらいの人と出会ってきた計算になる。

 

以前にも書いたが、この仕事はただ話を聞くだけではない。

なぜ今の困りごとを抱くに至ったか、この先どう生きていきたいか、そこが(もしかしたら今この時の困りごとよりも)重要になってくる仕事だ。

 

人生に触れるという表現が、僕は1番しっくり来る。

 

そして僕は、200人の人生に触れた。

これは結構な事だと思う。

 

僕個人はそこまで突飛な人生は歩んでいない。

 

親の愛はたしかにあり友人もそれなりにいるもものの、肥満児であることに人並みの劣等感を抱き

 

高校生でバンドに出会い夢中になり、それが終わると社会に出ることを人並みに恐れ

 

出てみると割と上手くやれたことに拍子抜けし、資格を取ってしばらく働いたのち転職

 

結婚して子供を授かり、下の子もそれなりに落ち着いた今、満を辞して音楽を再開

 

大体、この四文で収まる人生だ。

(この四文を膨らましに膨らませて一曲書いたけど)

 

しかし僕は生業が幸いし、これに×200人分の人生に触れている。

 

彼らの歩んできた道全てを追体験したとは恐れ多くも言えないが、それでもこっちも相談を聞く時はまぁまぁの熱量で聞いているから、彼らの未来が開けた時は自分のことのように嬉しい。

 

前にも書いたが、贅沢な仕事だ。

人1人の人生は、その一部分だけでも映画一本より余裕で面白い。

少なくとも僕にとっては。

 

そしてその仕事は、僕の他の側面(音楽家とお父さん)と見事に交差する。

 

彼らに学んだことは少なからず子育てに生きるし、心の機微は曲や詞になる。

 

まぁ全てが上手く回ってるわけでは当然無く、胃が痛くなる瞬間も、どん詰まってんなと思う瞬間もアホほどある。

 

それでも、やるべき事を端から果たし、思考して判断を繰り返す。

それしかやることは無いから、それだけをする。

 

書いたことは無いけど、消化しきれないくらいの負の感情が湧いたら、それこそラップにでもして茶を濁そうと思う。

 

逃避ととるか昇華ととるかは、僕の独断で良いはずだ。

 

いいぞDr.T、脂が乗っているぞ。

 

 

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『笑え、無理をしてでも』

未来は俺らの手の中/THA BLUE HERB

 

ミクスチャーロックは好きですか?

そう言えば、音楽の話をまるでしていないことに気が付いた。

 

これではいけない。Dr.Tは音楽家なのだ。

音楽に言及しなければ。

 

しみったれたエモーいエッセイばかり書いていては、いけない。

郷愁タグばかり活用していてはダメだ。

 

 

 

 

 

というわけで、今日はミクスチャーロックの話をしようと思う。

 

まずミクスチャーロックとは何か。

音楽の1ジャンルである。

 

ちなみにこの言葉自体は和製英語であり、英語圏では通用しない。

 

言葉そのものを和訳すると『ごちゃ混ぜロック』となるが、そういった音楽がミクスチャーロックとカテゴライズされることはあまり無い。

 

実際に世に認知されているミクスチャーロックの定義は『ロックバンドが奏でる音にラップが乗っている音楽』だ。

 

海外では『ラップコア』や『ラップメタル』と呼称されている音楽を、日本では『ミクスチャーロック』と呼んでいる。

 

ちゃんとwikiとかを見ずにノリで書いているから間違いはあるかもだが、海外ではrage against the machine、日本だと山嵐BACK DROP BOMB等がパイオニアに当たり、世に広く認知されるきっかけとなった金字塔的存在だと、limp bizkitDragon Ashがそれに当たる。

 

 

 

僕はミクスチャーロックが大好きだ。

 

15歳で初めて山嵐の『山嵐』を聴いた時、とんでもない衝撃が走った。

 

その曲は不穏なベースラインから始まる。

 

そのベースラインにベースに負けないくらいの重低音のギターとドラムが絡み付く。

 

なにかが始まる予感がする。

 

そしてたっぷり溜めたイントロが明けた第一声が

 

『やってきたぞ山嵐登場 片っ端から投げ散らすぞ』だ。

 

『何かがやってくる…!』という空気満載なイントロの後に『やってきたぞ!』と言われるとこっちは『やってきたー!』となる。

すごくIQの低い文章を書いているが、ほんとなる。

 

というかまず、歌詞でここまで直球な自己紹介を聴いたことが無かったので、そこにまず度肝を抜かれた。

 

山嵐は今でも第一線で活躍しているが、今でもライブの一曲目は『山嵐』らしい。

 

そりゃそうだ。あんなにもかっこいい自己紹介を僕は他に知らない。

未来永劫やるべきだ。やってきたなぁ!ってなるし。

 

僕がミクスチャーの何が好きかと言われると、『音圧と言葉数』に尽きる。

 

僕はマッチョイズムやヤンキー魂とは程遠い男だが、男ではある。

男は『強い』とか『硬い』とか『ギザギザ』とかが好きなのだ。

 

ミクスチャーは上に挙げたような言葉がよく似合う音像だ。

 

重くて硬くて尖ったロックに、矢継ぎ早で強気なラップが乗る。

 

僕が好きな音楽は

ビジュアル系(00年代前半まで)

ミクスチャー

ヒップホップ

エモ

ポストロック

 

大別するとこの5ジャンルだが、ミクスチャーには特に『男の子』を刺激された気がする。

 

なんかバトル漫画や特撮ヒーローに近い感覚を持っている。

否応無く燃えるっていうか、アガるっていうか。

 

 

 

 

また、ミクスチャーは演るのが格別にいい。

 

僕は今まで7組ほどのバンドをやったが、そのうち4組がミクスチャーバンドだった。

 

自分のベースとバスドラがバッチリユニゾンしていて、その上にギターが乗り、その上にマシンガンみたいなラップや壮大なメロディが乗る。

 

その瞬間が、僕は生きてて一番解放される。

 

 

 

 

 

さて、そんなDr.Tの最新ミクスチャーバンド『Calm brake』は絶賛製作中である。

 

過去のバンドの曲のリメイクで一度ライブはこなしたが、次のライブは全曲Calm brake名義の曲でステージに立つつもりだ。

 

なにせ全員おっさんのパパバンドなのでゆっくりではあるが、曲は着々と出来上がっている。

 

デモ音源の編曲、MIXは全面的に僕の管轄だが、リフやラップが届くたび、ワクワクして仕方ない。

 

 

しかし、不惑前にもなって、まさか自己表現でこんなにも生活が彩られるとは知らなかった。

 

日々の色々をこなしながら、こんなにも打ち込めることがあるなんて、歳も取り方次第なのだなぁ…としみじみ感じた。

 

山嵐の『山嵐

数年前に出た再録版

 

 

 

あの頃の話

18〜25歳の7年間、旅行を趣味としていた。

 

バンド仲間の親友と3人で日本全国津々浦々を旅していたのだ。

 

たしかきっかけは『原付で無茶をしたい』とかそんなんだったと思う。

 

おっさんになった今では考えるだけでゲンナリするが、あの頃は本当に『非効率』こそ1番面白かった。

 

冷静に分析すると『金はないが時間と体力がある=非効率なことをする』なので、若者の衝動の発散としては、まぁまぁ文脈が通っている。

 

有り余る時間と体力を効率的に消費する財力が僕たちには無かった。

 

最初の旅は原付で10数時間かけて、三重に行った。

帰りの道程はほぼ覚えていない。

ほとんど無意識で仲間の声かけでなんとか目を覚ましながら運転していたためだ。

 

行きは結構覚えている。

 

数時間走った山奥の国道が土砂崩れで封鎖されていたこと。

 

道中の電光掲示板からの通知で僕だけがその事実に薄ら気付いていたが『まさかここのことじゃないよな…』という楽観で黙っていたこと。

 

迂回した獣道を原付を持ち上げながら進行していたら、明らかに不法投棄の高級車が落ちていたこと。

 

山奥のお地蔵さんに自分たちのCD‐Rを供え『ミクスチャーロックを変えられますように』と手を合わせたこと。

 

宿ももちろん取っていないので、コンビニの駐車場で車止めを枕にして寝たこと(一応、夜勤のバイトの人にお願いはした)。

 

現れた田舎ヤンキー達に絡まれるも、僕以外の2人(両方フロントマン)のコミュ力で仲良くなり、お地蔵さんと同様CD‐Rを渡してことなきを得たこと。

 

37歳になった今もまだまだ思い出せる。

 

 

さすがに2年目以降は車での旅になったし、途中から社会人になったので安宿も取るようにはなったが、一貫してめちゃくちゃ綿密なプランは立てなかったし、立てることを良しとしなかった。

 

『決まってない方が面白い』という価値観があの旅の根底には流れていた。

 

予定をこなす道程じゃなかったから、今でもこんなに思い出せるのだと思う。

 

 

 

毎年恒例の旅は不意に終わった。

 

メンバーが1人、交通事故でこの世を去ったためだ。

 

姉から『人生には渦中にいる時から「あの頃」と表現したくなる時期がある。なんかその真っ最中からセピアがかっているような。あの頃のあなた達はまさに「あの頃」だった。そして、そんな時期はなんとなーく終わっていって、後から笑い合って思い出せるからいいのに、あんなに不意に終わるなんて、側から見ててもとても切ない』と彼の死から何年後かに言われたことがある。

 

いや、渦中ではフルカラー全開だったぜ!と言いたい気持ちはあるが、納得はした。

 

彼がいなくなったことで、嫌な神格化というか、一個含みを持った『あの頃』に変わってしまった感はあるが、もし生きててもどうせあんな旅は家庭や仕事で出来なくなったろうし、汚い居酒屋で『あの頃のような旅がしてぇなぁ』と管を巻いていたことだろう。

 

それでよかったんだけどな、言っても仕方ないけど。

 

まぁ、なぜ、こんなことを急に思い出したかと言うと、彼のことを綴ったラップを今週末にスタジオに入って録音することになったから&先週末に家族旅行に行ったからだ。

 

家族旅行は楽しかった。

しかし全てのエンターテイメントを子供に全振りした旅は疲労度が半端無く、もし彼が生きているパラレルワールドの僕なら速攻で『あの頃の旅と違ってよぅ…いやーパパって大変やわ』とLINEしているように思う。

 

ラップにはそんな気持ちを全部乗せた。

 

13年も前のことなので、未だ整理がつかないなんてことは正直無いが、彼のことを改めて思い出し、自分のアートとして昇華する作業は、また一つ新たな整理の付け方になったのではないかと思う。

 

恥ずかしくないレベルの音源が作れたら、世に出そうか迷い中である。

Dr.Tは基本ベーシストなので、自分の歌唱はちょっぴり恥ずかしい。

 

まぁ要約すると『今まではタイムマシンが欲しかったが、今はワームホールが欲しい』そんな歌が書けた。

 

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数年前、残りの2人で再訪した思い出のコンビニ。駅前なのにおもっきり潰れてた

 


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レンズに汗が付着し夢の中みたいに映ったビーチ

&キリンにがっつり手を食べられている息子