Dr.T's room

相談員を生業とし音楽家を生き甲斐とする2児の父の話

こめかみ貫くノスタルジー

僕は箱庭のような村で育った。

 

市町村的な『村』では無く、地方都市の中のある一角と言う意味での『村』だ。

 

西を走る府道が境界となっている半径1km四方くらいのその土地は、小さな神社を取り巻くように、代々の氏子の家々が並び立っていて、地車地蔵盆では地の人が張り切り、噂話なんかもすぐ回るまさに『村意識』全開の土地だった。

 

九州の山村から出てきて団地に住んでいた父方の家族が家を買うことになった時、父が『新興住宅地じゃなくて地の人がいる土地がいい』と主張して、そこに住むことになったと母に聞いたことがある。

 

もっとも父が熱心に近所付き合いをしていた印象は全くないが。

 

さて、母は村のしきたりや婦人会の付き合いなど色々大変な思いをしていたようだが、僕はあの土地が妙に好きだった。

 

村の中には何も無かった。

駄菓子屋が2軒ある程度で、何をするにも境界の府道は超える必要があった。

 

ただ、目を瞑っても歩けるような箱庭には、幼馴染が山ほど居た。

少年にはそれだけあれば充分だった。

 

夏休みは毎日誰がしかの家に集まってゲームをする。

それなりにでかい公園があったので、そこで蝉の交尾を眺める。

 

何も想定外のことが起こらない毎日が楽しかった。

 

父と祖父名義の狭小住宅は今はもう無い。

父が事業に失敗して手放したためだ。

 

幼馴染達とは幸い今でも親交があるが、今村に住んでいるのはただ1人。

みんな紆余曲折あり、箱庭を離れた。

紆余曲折ありすぎて、南島の廃校に暮らしている友もいる。

 

先日仕事で村の近くを原付で通ることになった際、なんとなくノスタルジーに浸りたい気分になり、立ち寄ってみた。

 

少年の頃、あんなにも全てが事足りていた箱庭は、おっさんが原付で駆け抜けてみると、驚くほど狭かった。

 

父のタバコやビールを買いに走らされた駄菓子屋は、おばさんの体調不良で店を閉めていた。

 

僕の生家は跡形も無く、綺麗な三階建の家が建っていた。

 

箱庭は足を伸ばせば今も確かにそこにあるが『あの頃の箱庭』にはどう足掻いても戻れない。

 

そんな感覚がこめかみを貫き、逃げるように会社に戻った。

 

後日、会議のアイスブレイクでそんな話をしたら、上司から『それは「ノスタルジーの暴力」って言うのよ』と教えてもらった。

 

『なるほど、あのこめかみを貫く切なさは確かに暴力的だ…』ととても納得したと同時に『ノスタルジーの暴力…!かっけぇ単語!』と浅はかなテンションの上がり方をした。

 

そして、僕は『ノスタルジーの暴力』をテーマに曲を作った。

最近、同テーマでラップも書いた。

 

結果的に計二曲分の芸の肥やしになったので、中年のメランコリックも捨てたものではない。

 

 

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公民館越しののっぺりと低い箱庭の空

 

薄ら笑う兄

弟と酒を飲んだ。

 

彼が産まれたのは、僕の4歳が終わりかけるある11月だった。

 

確か夜中に生まれたはずだ。

産まれる直前のある夜に名前を『ユータ』にしようと熱くプレゼンしたことを覚えている。

多分、4歳の僕のチョーカッコいいと思っていた名前だ。

家族の賛同は全く得られず、結局僕と一字違いの名前になった。

 

本人がどう思っていたかわからないが、僕なりにこの5つ下の弟を可愛がった。

 

5つ下というのは割としっかりした歳の差で、中学が同じになることはもちろんないし、小学校もラスト2年だけ被るくらいのものなので、兄弟の関係性によっては結構疎遠になるはずだ。

 

しかし僕は気になって仕方なかったので、なにかとかまった。

物心付く前後には当時僕が激ハマりしていたSDガンダムや戦隊モノを熱心に布教していたし、音楽も僕のハマっていたラルクやBUMPをコンコンと聴かせ伝えた。

 

V系については泣くほど嫌がったが、ギターロックは性に合ったようだった。

そこを入り口に僕が専攻していない路線の音楽に傾倒していき、気付けば僕よりもがっつり目のバンドマンとなっていた。

 

僕が学生の頃ハマり倒していたバンドマンと言葉や酒を交わしたり、フェスで共演したこともあったという。

生意気な奴めとも思うが、ちょっぴり自慢でもある。

 

そんな彼は、とても弟(もしくは末っ子)然としている。

いつも大体だらしがなくしているし、いつも大体生き方に迷っている。

まぁうちは三姉弟で、僕の上に更に姉もいる。

末っ子オブ末っ子なので、そらそうなる。

 

 

今宵も何やら降って湧いた転機に対し、迷いを抱いているようであった。

 

こういう時、兄は多分金言となる言葉を吐いた方が良いのだが、互いに30を超えているので生き方がどうこう言われても困るし、道標を兄が与えるにしては少し年嵩な気もする。

 

しかし『知らんがな』と切り捨てるほど彼に興味が無いわけではない。

僕が初めて獲得したアイデンティティは『お兄ちゃん』なのだ。

それは彼無くしては決して得られないものだ。

 

でもまぁ、職業柄『こうせよ』と言うのは抵抗があるので、ほんのり方向性を伝えるくらいに留める。

良い相談員は自己決定を促すのだ。知らんけど。

 

 

 

結局、(とりわけ大人になってからの)人生なんてものはどこまで行っても自己決定で主観だ。

人から提案されたことでもそれを選び取るのは自分自身だし、その環境がしんどいか楽しいか、どう捉えるかは自分次第だ。

 

彼が降って湧いた転機にどう向き合うか、それは絶対的に彼が決めなくてはならないし、どっちを選んでも外野がどうこういうものでもない。

 

ただ、主観だけは気楽でいろよと思う。

乗り越えなくてはならないことは、どう捉えても乗り越えなくてはならないのだ。

どちらにしても乗り越えなくてはならないなら、ヘラヘラしていた方がずっと楽だ。

 

そんな哲学でお兄ちゃんは生きているので、今日もヘラヘラ子育てをし、仕事をこなし、夜な夜な曲や詞のことを考える。

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在りし日のおとうととわたくし

 

不惑前から始める言葉遊び

ツラツラと自己紹介を走り書いた夜が明け、目を覚ますと息子が熱発していた。

 

明日は妻が休んでくれるそうなので、今日は僕が休んで看ることとする。

早々に娘のみ保育園に送り届け、息子と2人帰宅した。

 

その後職場へ電話をし、1日休む段取りを済ませた。

こればかりは致し方ない、役割は生業と生き甲斐よりも優先されるのだ。

 

さて、当の息子本人は園を休めてウキウキで、YouTubeをゴロつきながら観ている。

 

お父さんは暇だ。

なので、一筆したためることにする。

 

 

 

僕はお恥ずかしながら、37歳にしてラッパーデビューした。

バンドと違い、ライブなどで人前で披露する気は今のところまるでないけれど、今年に入ってから宅録で4、5曲書いている。

ビートは自分で作ったり、音楽仲間から提供してもらったり、昔組んでいたインストバンドの曲を使ったりしている。

 

ちなみに『Dr.T』という名前は初めてビートを作った際にバンドのMCから名付けられた。

Dr.dreやDr.K(KREVA)やMr.drunk(mummy D)的なノリだ。

 

 

これが、とても楽しい。

 

元々僕はバンドでボーカルパート全般(メロディ、歌詞、ハモリとか)の作成を担当しているので、作詞は昔から嗜んでいた。

 

しかし、世に声を大にして伝えたいことなどこれっぽっちも無いので、なんだか全曲エモいストーリーテリングみたいな詞ばかり当てていた。

三曲に一曲くらい誰かが死んでいた。

 

しかし『ヒップホップはリアルな音楽』と物の本に書いてあったので、ラップを書くとなるとそうもいかない。

 

僕が好きなラッパー達は、自らの在り方や哲学、感情の動きをありのまま誦じていたので、僕もそれに倣うことにした。

(まぁ結局ストーリーテリング物も何曲か書いたけれど)

 

そうすると、書きたいことは割とあった。

創作意欲が止まらず、自制をかけるくらいに。

 

まぁ世の中に訴えたいか、物申したいかと言えばやはり全くそんなことは無いけれど『自分はこういう人間で、こういうことを考えている』ということを、ライムやフロウ等のラップのルールに則って、ビート上に落とし込むというアートフォームはとても自分に合っていることに気付いた。

 

なにせ、僕は人と音楽と作文が好きなのだ。

 

さぁ、今日は誰の何をラップにしてやろうか。

 

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Dr.TのDrグッズ

かのかが空になったので

色々あって南島で暮らしている幼馴染より要請があったので、ブログを始めることにした。

 

ちょうど飲んでいるかのか(麦焼酎)も空になったので、このブログを書いたら寝よう。

 

僕は相談員をしている。

 

立場上、毎日さまざまな人生に触れる。

再就職を目指していたり。引きこもっていたり。ゴミ屋敷で暮らしていたり。他者とのコミュニケーションで行き詰まりを感じていたり。

 

そういった相談を聞くことは、自分1人の人生では到底間に合わないくらいの悲喜交々を他者を通して味わえていることと同義だ。

 

贅沢な仕事だと思っているし、天職だとも思っている。

なにせ僕はびっくりするくらい人に興味がある。

 

そんな仕事を生業としている僕は、音楽家を生き甲斐としている。

 

15の春から37の今に至るまでバンドマンをアイデンティティとしている。

 

担当楽器のベースのテクニックは恐れ多くも高いとは言えないレベルだが

 

幼馴染のギタリストから届いたリフを編曲する時

その曲にメロディと詞を書きボーカリストに歌ってもらった時

さらにそこに僕が世界で1番ラップが上手いと思っているラッパーがラップを乗せた時

そしてそれをバンドのみんなで爆音で鳴らした時

 

心底ワクワクして生きてて良かったと感じる。

 

もう一つ。僕は2児の父でもある。

 

このアイデンティティは生業よりも生き甲斐よりも後に手に入れたものだ。

しかし、1番比重が大きく重要なものだと思っている。

 

子供は儚い。

現状把握も未来予測もクソもないので、油断するとすぐ生命の危機に瀕する。

 

そんな生き物を育てることは、なかなかのミッションだと日々感じている。

 

しかし『お父さん大好き』の一言だけで、承認欲求の充足や使命感の発露など半端ない感情が動くので、生きてくれているそれだけで大きなインプットなんだろうなとも思う。

 

生業と生き甲斐と役割が、上手いこと相互に作用している現状は、すごく奇跡的なのだろうなと感じているので、ブログを始めた第一筆目に残しておく。

 

まぁどれも瑕疵が無いわけでは無いけれど、その全てに期待を抱けている時点で満たされていると言っていいのだろう…と思っている37歳のある夏の夜の話でした。

 

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